いつから問題になったの?「河野談話」ってなに?

    慰安婦の存在は社会的に知られていましたが、韓国が民主化した後、1990年ごろから大きな問題となりました。元慰安婦たちが日本政府に謝罪などを要求、日本政府が調査を行います。そして1993年8月に河野洋平官房長官が発表したのが「河野談話」です。元慰安婦に対し「心からお詫びと反省の気持ち」を表しています。

「慰安婦を強制連行した」という吉田清治氏の証言(後に虚偽と判明)が、
朝日新聞に初めて掲載されたのは1982年のことでした。

少なくともこの頃には社会の関心があったといえますが、
1987年に韓国が民主化し、日韓の歴史問題が注目されるようになると、
慰安婦問題は大きな政治問題になっていきます。

1990年、韓国の女性団体などが日本政府に公式謝罪などを要求。
元慰安婦を支援する団体「挺身隊問題対策協議会(挺対協)」が結成されました。

1991年、元慰安婦の金学順(キム・ハクスン)さんが初めて実名で名乗り出ます。
そして元慰安婦らが日本政府に謝罪と補償を求めて東京地裁に集団提訴しました。
韓国政府は日本政府に真相究明を求め、日本政府は調査を行うと表明しました。

1992年1月、宮澤喜一首相が韓国を訪れ、首脳会談や国会演説で謝罪。
そして7月、加藤紘一官房長官が慰安婦問題の調査結果を公表し、次のように述べます。

私から要点をかいつまんで申し上げると、慰安所の設置、慰安婦の募集に当たる者の取締り、慰安施設の築造・増強、慰安所の経営・監督、慰安所・慰安婦の街生管理、慰安所関係者への身分証明書等の発給等につき、政府の関与があったことが認められたということである。
(※1992年7月6日「加藤官房長官発表」より一部抜粋)

ここでは慰安婦問題について「政府の関与があった」としていますが、
韓国側は「事実上の強制連行があった」としたため、問題はおさまりませんでした。

7月6日に、日本政府は慰安婦問題の調査結果を発表し、加藤官房長官が慰安婦について軍の関与を認め謝罪する内容の談話を発表した。しかし、政府の関与は認めたものの、強制連行については認めなかった。一方、韓国政府は7月31日に独自の報告書を発表し、事実上の強制連行があったとした。このように、強制の有無について日韓で差異が生じた。そのため、韓国の対日批判は収まらず、日本政府は調査を継続した。その際、強制を裏付ける資料がなかったため、日本政府は対応に苦慮し、元慰安婦からの聞き取り調査が検討された。
(※国会図書館資料「従軍慰安婦問題の経緯」より一部抜粋)

翌1993年7月、日本政府は韓国の元慰安婦16人から聞き取り調査を行いました。
そして8月4日、当時の官房長官である河野洋平氏が「河野談話」を発表しました。

あいまいな表現で政治決着を図った河野談話

1993年8月4日、当時の官房長官である河野洋平氏が発表しました。
この「河野談話」には以下のように書かれています。

慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。
 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる

慰安婦が意思に反して集められた事例に「官憲等が直接これに加担したこともあった」とあり、
日本政府による強制連行を認めたように受け取れる文言となっています。
慰安婦問題の政治決着を図るためのあいまいな表現でした。