「辺野古」ってなに?なぜ問題が長引いてきたの?

    普天間基地の移設先として浮上したのが、沖縄県・名護市の「辺野古」です。
    根強い反対がありながらも、2006年には名護市が移設案に合意しました。
    しかし、2009年の政権交代選挙で、民主党・鳩山氏が「県外移設」を訴えます。
    ところが鳩山政権は代替案を見つけることができず、辺野古案に戻りました。
    そんな迷走の中で沖縄の「民意」は再び反対へと転じ、問題が長期化しています。

1996年4月に日米両政府が普天間基地の返還に合意しました。
その移設先として浮上したのが沖縄県名護市・辺野古です。

1997年12月に行われた名護市の住民投票では、
代替施設の受け入れ反対票が過半数をしめましたが、
比嘉市長(当時)は辞任と引き換えに基地の受け入れを表明しました。

その後、名護市長選挙、沖縄県知事選挙では、
条件をつけながらも受け入れを容認するスタンスの候補が当選し、
辺野古への移設計画は少しずつ前進していきました。

建設場所について合意形成に時間を要しましたが、
2006年、当初案を修正した「V字滑走路案」で名護市も合意。
5月には、日米両政府は米軍再編ロードマップを発表し、
2014年を目標に、普天間基地を名護市辺野古に移設することで正式に合意しました。

この年の11月に行われた沖縄県知事選挙では、
計画を容認する立場の仲井真氏が当選しています。

民主党・鳩山首相の「県外移設」発言で迷走

事態を急変させたのは、2009年の政権交代選挙。
民主党の鳩山代表(当時)が「最低でも県外」と発言したのです。
当時の民主党マニフェストには盛り込まれていませんでしたが、
選挙活動の中で代表が述べたことにより事実上の公約となり、
鳩山政権は県外移設を模索します。

そんな中、2010年1月の名護市長選挙では、県外移設を主張する稲嶺進氏が当選。
1996年に辺野古が移設先として浮上して以来、
市長選挙では3回連続で容認派が当選してきましたが、
初めて移設反対派の候補が当選しました。

しかし、5月に発表された日米共同声明では、辺野古移設案に回帰。
辺野古以外に「腹案がある」と発言していた鳩山氏でしたが、
結局、代替案を見つけることができなかったのです。

沖縄の世論は県外移設への期待が高まっており、
当初、辺野古移設を容認していた仲井真知事も、
11月の知事選挙では「県外移設」主張に転じ、再選を果たします。

国政レベルでは迷走を経て辺野古移設案に戻りましたが、
沖縄県および名護市では、主張の立場が移設反対へと変わってしまったのです。