集団的自衛権は国連憲章に明記された「固有の権利」
集団的自衛権は、国連憲章に明記された「固有の権利」ですが、日本政府は、憲法9条の制約によって行使できない、との説明してきました。
安倍政権がこの解釈を見直し、集団的自衛権の行使を可能にしたため、憲法解釈の変更の妥当性が議論になっています。
憲法第9条は、
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2項
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
(※日本国憲法より引用)
と定めています。
いっさいの武力行使を放棄しているように読めますが、憲法9条と自衛権をめぐる「解釈」は時代と共に変化しました。
これまでに示されてきた代表的な政府解釈や最高裁判決などを以下に紹介していきます。
吉田茂首相「自衛権」めぐる発言変化
1946年6月26日、帝国議会・衆議院本会議で当時の吉田茂首相は、
戰爭抛棄に關する本案の規定は、直接には自衞權を否定はして居りませぬが、第九條第二項に於て一切の軍備と國の交戰權を認めない結果、自衞權の發動としての戰爭も、又交戰權も抛棄したものであります
と述べました。
この時点では「自衛権の発動としての戦争・交戦権」を放棄しています。
しかし、1950年1月28日の衆議院本会議で吉田首相は、
いやしくも国が独立を回復する以上は、自衛権の存在することは明らかであつて、その自衛権が、ただ武力によらざる自衛権を日本は持つということは、これは明瞭であります
と方針を変えました。
なぜ短期間の間にこのような変化があったのでしょうか。
実は当初は、国連の「集団安全保障」体制に国防をゆだねる方針でした。
しかし、米ソの激しい冷戦構造の中で思うように国連が機能せず、「自衛権」すら放棄したままでは国の防衛が立ち行かなくなったのです。
自衛隊を創設
その後、日本周辺の安全保障環境をめぐる状況が大きく変化します。
1950年には朝鮮戦争が勃発。
1952年には日本が主権を回復、アメリカと安保条約を結びました。
1954年には自衛隊が創設され、当時の大村防衛庁長官は国会で、自衛権と自衛隊の合憲性について次のように述べました。
第一に、憲法は自衛権を否定していない。自衛権は国が独立国である以上、その国が当然に保有する権利である。憲法はこれを否定していない。従つて現行憲法のもとで、わが国が自衛権を持つていることはきわめて明白である。
二、憲法は戦争を放棄したが、自衛のための抗争は放棄していない。
一、戦争と武力の威嚇、武力の行使が放棄されるのは、「国際紛争を解決する手段としては」ということである。
二、他国から武力攻撃があつた場合に、武力攻撃そのものを阻止することは、自己防衛そのものであつて、国際紛争を解決することとは本質が違う。従つて自国に対して武力攻撃が加えられた場合に、国土を防衛する手段として武力を行使することは、憲法に違反しない。
自衛隊は現行憲法上違反ではないか。憲法第九条は、独立国としてわが国が自衛権を持つことを認めている。従つて自衛隊のような自衛のための任務を有し、かつその目的のため必要相当な範囲の実力部隊を設けることは、何ら憲法に違反するものではない。
自衛隊は軍隊か。自衛隊は外国からの侵略に対処するという任務を有するが、こういうものを軍隊というならば、自衛隊も軍隊ということができる。しかしかような実力部隊を持つことは憲法に違反するものではない。
(※1954年12月22日 衆議院予算委員会での大村清一防衛庁長官の発言)
自衛権は「独立国である以上、その国が当然に保有する権利」であり、
自衛隊は「(自衛目的で)必要相当な範囲の実力部隊」として合憲だとしています。
最高裁、砂川事件判決で自衛隊「合憲」
1959年12月、いわゆる「砂川事件」をめぐる最高裁の判決では、
同条(編集部注※憲法9条)は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである
(中略)
わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない
(※砂川事件・最高裁判決より)
このように、自衛権は独立国家として当然に保有しているもので、自衛のために必要相当な範囲の組織である自衛隊も合憲である、という考え方が政府からも最高裁からも明示されました。
以上が、「自衛権」をめぐる解釈や判決です。
集団的自衛権に余地を残した岸首相発言
日米安保条約が改定された1960年の3月31日、当時の岸信介首相は参議院予算委員会で、
集団的自衛権という内容が最も典型的なものは、他国に行ってこれを守るということでございますけれども、それに尽きるものではないとわれわれは考えておるのであります。そういう意味において一切の集団的自衛権を持たない、こう憲法上持たないということは私は言い過ぎだと、かように考えております。
「一切の集団的自衛権が許されないと考えるのは言い過ぎ」であり、集団的自衛権が認められる余地がある、という発言です。
現在の「限定容認論」や閣議決定された方針に近い考えですが、その後、集団的自衛権を否定する政府解釈が定着することになります。
集団的自衛権を否定した1972年の政府解釈
1972年10月、参議院決算委員会に政府が提出した資料では、
政府は、従来から一貫して、我が国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであって許されないとの立場に立っている。
憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が・・・平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、また、第13条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、・・・国政の上で、最大の尊重を必要とする」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであって、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。
しかしながら、だからといって、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、 それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。
そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。
このように、集団的自衛権は憲法上許されないと明記されています。
1981年の政府答弁書でも集団的自衛権を否定
こうした憲法解釈は、1981年5月、政府答弁としても出されました。
国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもつて阻止する権利を有しているものとされている。
我が国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法第九条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであつて、憲法上許されないと考えている。
なお、我が国は、自衛権の行使に当たつては我が国を防衛するため必要最小限度の実力を行使することを旨としているのであるから、集団的自衛権の行使が憲法上許されないことによつて不利益が生じるというようなものではない。
(※1981年5月29日の政府答弁書より引用)
時代とともに変化してきた憲法9条と自衛権に関する解釈は、この1981年の答弁で政府の基本的立場として固まったとみられてきました。
憲法9条が許す自衛権の行使は「自国を守るために必要最小限度の範囲にとどまる」とし、集団的自衛権については、その範囲を超えるため認められないという考え方をしてきました。
すなわち、憲法9条の制約で「集団的自衛権は持っているが行使できない」ということになるのです。
以上をまとめると、日本は、国連憲章に明記されている個別的自衛権も集団的自衛権も保有しているものの、憲法9条の制約によって、集団的自衛権については行使できないという立場に至ったのです。
安倍政権は、このように変遷してきた憲法9条の解釈を見直し、政府が否定してきた集団的自衛権の行使を可能にしようとしているため、大きな論争となっています。
コメント
3件のコメント
T_Ohtaguro
2016年12月04日 0:08
1959年12月 砂川事件・最高裁判決について、意図的に抜粋しているのかな?
最高裁判所大法廷 昭和34(あ)710(昭和34年12月16日 判決)
http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=55816
全文
http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/816/055816_hanrei.pdf
すなわち、われら日本国民は、憲法九条二項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによつて生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによつて補ない、もつてわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである。そしてそれは、必ずしも原判決のいうように、国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等に限定されたものではなく、わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであつて、憲法九条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである。
そこで、右のような憲法九条の趣旨に即して同条二項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条一項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。従つて同条二項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。
___
上記は、最高裁判所 大法廷の憲法解釈。
つまり、国の終審裁判所における憲法解釈。
わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力は、同条項がその保持を禁止した戦力に該当する。
___
憲法解釈により、自衛隊を合憲と認定することを望むのであれば、
憲法 第六章 第七十九条1項、第八十一条、第八十二条の規定により、公開の最高裁判所 大法廷で憲法適否に関する終審裁判の対審を行い、憲法に適合する理由において論理的に完結していることを理由として付した判決により決定すべきである。
0人が
大和撫子
2016年04月18日 2:58
日本の憲法改正の条件は「世界一厳しい」というのはウソ・・・
と言う人たちは、安保法制・自衛隊が憲法違反だから法案には反対だという理屈と同じです。
つまり、(国民の生命・国の存立よりも、憲法に書かれてあることを守れ)というのです。
●憲法改正は衆参両議院の3分の2以上の賛成で発議できること。
●国民投票で過半数の賛成を得ること。
※ (なにが何でもの護憲派)はこの二つの条件が 他国と比べた場合に、「世界一厳しい」というのはウソだからと言うのです。 憲法の字面を神からの授かりものであるかのように復唱するだけの人々は、9条の信奉から入る阿呆陀羅経の信者であることを意味します。 つまり、分析・深読みが出来ない人ということなのです。 このことは頭脳の善し悪しから来ています。
政府が「世界一厳しい」という理由は、(戦後の改正回数にある)ということなのです。 他国では憲法改正が何度も繰り返されているが、日本は戦後70年経ってもタブー視されてきたために一度も改正されていない。 軍隊を持たないうえに交戦もしないという、国家としては国防の手立てを否定する(世にも異常な憲法)と (プレスコード、W.G.I.P=自虐史観、日教組の護憲教育)・・・これらのアメリカによる日本弱体化戦略が続いてきたからにほかならない。
憲法9条は(国民の安全を、がんじがらめに縛った条文)となっています。
国民の安全を縛ったのが憲法であってはなりません。 国民を守る意志が示されている基本法が憲法であるべきです。
日本人が自殺に等しいこんな現憲法(占領憲法)を 自ら作るわけがありません。 当時はアメリカの進駐軍が日本を占領し、支配しています。 その状況下で3発目の原爆投下をチラつかせ、天皇陛下の命は日本の出方次第。 アメリカが日本の運命を握っているのだ と凄まれたら、明治憲法を捨て、アメリカ軍GHQが示した憲法草案を丸呑みし、(天皇の名のもとに日本が自主的に作りました)と言わざるを得なかった。・・・護憲学者は何故そのことに言及しないのか。 現実に目を閉ざすユートピア思想の確信犯であることは、恐らく間違いないことです。
0人が
(和の国)を建て、日本を守って下さった先祖に習おう
2016年04月17日 21:05
タイトル:憲法9条は、日本侵略への免罪符(許可条文)
・・・これを守ろうとする新聞・野党・憲法学者・シールズとは 何者?
戦前の日本は理想の大東亜共栄圏を目指したのですが、決して東南アジアを領土にしようとは考えませんし、領土としたことも一切ありません。 あくまでも共栄です。
日本の敗戦で日本軍が解体されたのを絶好のチャンスと見た中国は、やりたい放題です。
中国軍は(満州・南モンゴル・ウィグル・チベット)に侵攻し、大虐殺し、奪ってしまいました。
日本の憲法と精神を壊したアメリカは、日本を隷従国として占領憲法(現憲法)で70年間も日本の独立を阻み続けています。 自由・人権・平等を共通の基本理念に掲げる現在のアメリカとは手を結ばねばなりませんが、日本は誇りを取り戻すために、真の独立国として早期に自主憲法をつくる必要があります。 中国・ロシア・北朝鮮が今後も何をしでかしてくる予断を許しません。 アメリカは互いに正面から戦いあった日本の強さを知っているわけですから、日本が属国として利用するよりも 自主憲法を持つ真の独立国として誇りを持った信頼できる日本である方が、日米が同じ陣営として基本理念を守る上で望ましい同盟関係になる筈です。
アメリカは日本がやがて自主憲法を制定することを承知しています。 現憲法(占領憲法)を持続させようとしているのはアメリカではありません。 日本を押さえ込むことでアメリカと対峙している全体主義の中国・ロシアであり、南北朝鮮が加わっています。 これらの国々の考えをサポートしてしまっているのが日本国内の野党・自称憲法学者・日教組・シールズ翁長県政であり、扇動してきた(朝日新聞・毎日新聞・琉球新報・沖縄タイムス)を中心とする左翼新聞と系列メディアとチャイニーズマネーです。
白人国家がしてきた前世紀の植民地政策よろしく、今度は中国が 自分の番だと言わんばかりに領土拡張を続けています。
中国が今していること(南シナ海の占領・支配)(尖閣諸島への侵略・略奪計画)(沖縄の中国化)も絶対に許してはいけません。
日本は国防体制をしっかりと整備しなけばなりません。
野党は尽(ごとごと)く、日本の自立を妨害をしてきました。
●民進党も共産党も、まるで中国の手先として活動しているように思えてなりません。
軍隊を正当に保有できない憲法なんて、独立国としては有り得ないじゃありませんか。 どうやって、国民を守るのですか。
★前項の目的を達するため陸海空軍、(その他の戦力)はこれを保持しない。 国の交戦権はこれを認めない。
この意味は・・・戦う道具を持ってはいけない。 抵抗する権利も認めない。
★つまり、女性が強姦に遭ったら 催涙スプレーを使って追い返すことも出来ない。爪で引っ掻くことも出来ないように短くしておきなさい。 更には、股を閉じて頑張ることも認めません。 ・・・ということです。
※野党・シールズ・多くの自称憲法学者・一部の芸能人は、この9条を守れ と 国会で、国会前で 大合唱しながら繰り広げているのです。
現憲法は日本人が自ら作ったものだと頑固なまでに信じ込む学者がいます。 しかし、英文を翻訳した下手な日本語であることに、なぜ気付かないのでしょうか。 福沢諭吉が見たら大笑いするでしょう。
アメリカは、国内でさえ 銃の所有を禁止することはありません。
世界中の国が軍隊を持っているのに、自分の国だけが自主的に軍隊を解散・戦力を放棄する国は存在しません。
その国が生存できなくなるからです。 外国から襲われたら国民を・民族をどうやって守ろうというのでしょうか。
●9条を守れ!と主張する人は(子供たちに、憲法9条には魔法の力がある)とでも教えているのでしょうか。
憲法9条を外国軍に見せることは、(いつでも侵略していいですよ、貴国に隷従しますよ)と言っていることです。
中国軍・ロシア軍が日本に侵攻してきたら、防ぐ日本側から見ると(憲法9条は単なる貼り紙)でしか有りません。
★それどころか、攻める側から見れば・・・(憲法9条が日本侵略への免罪符・・・許可条文) となるのです。
0人が